- テクノロジーについて予測するのは気が進まないが、今回に限っては確信している: 「数十年後には、文章を書ける人はあまり多くなくなっているだろう」
- 書き手になると分かる最も奇妙な事実のひとつは、多くの人が文章を書くことに苦労しているということ
- 文章を書くのが難しいのは、根本的に難しいからである。うまく書くには明確に考えなければならず、明確に考えることは難しい
- 文章を書くことは多くの職業に広く浸透しており、より権威のある職業ほど、より多くの文章作成を求める傾向がある
- 文章作成に対する広範な期待と、文章を書くことの避けがたい難しさという、2つの強力で相反する力が巨大なプレッシャーを生み出している
- そのため、著名な教授たちがしばしば盗用に手を染めることがあり、こうした事例で最も印象的なのは盗用の軽率さである
- 彼らが盗むものはたいてい、少しでも文章がうまい人なら苦もなく見抜けるような、ごくありふれた決まり文句である。つまり、文章力が半人前にも達していないということだ
- 最近まで、こうした相反する力によって生み出される圧力を解消できる便利な方法はなかった
- もはやそうではない。AIがその世界を切り開いた。文章を書くことに対するほとんどすべての圧力が消えた
- AIによって、学校や職場で文章作成を代替できるようになった
- その結果、世界は文章を書く人と、そうでない人に分かれることになるだろう
- それでも文章を書ける人はいるだろう。文章を書くのが好きな人もいる
- しかし、文章をうまく書ける人と、まったく書けない人のあいだにある中間地帯は消えるだろう
- 良い書き手、そこそこの書き手、文章を書けない人、ではなく、良い書き手と文章を書けない人だけが残る
- これは悪いことなのだろうか。テクノロジーが進歩すれば、技術が役に立たなくなって消えるのは一般的ではないのか?
- 悪いことである
- 文章を書くことは、すなわち思考だからである
- 実際、文章を書くことによってしかできない種類の思考がある
- Leslie Lamportの言葉を借りれば、「書かずに考えるなら、あなたは考えていると思っているだけ」だ
- したがって、「文章を書く人」と「そうでない人」に分かれる世界は、思っている以上に危険である
- それは、考える人と、そうでない人の世界になるだろう
- この状況は前例のないものではない
- 産業化以前の時代には、ほとんどの人の仕事が彼らを強くした。今では、強くなりたければ運動しなければならない
- だから今でも強い人はいるが、それは自らそうなることを選んだ人だけである
- 文章を書くことも同じことになるだろう
- 依然として賢い人はいるだろうが、それもそうあることを「選んだ人たち」だけになる
22件のコメント
「文章を書く」を「考えを他人に伝えること」に置き換えて読んでみると、私は共感できました。
会社でこっそり見る仕事のできる人のAI文章術の著者、ハン・ジュングです。
私は文章を、自分のための文章と他人のための文章に分けて考えています。
他人のための文章、たとえば会社で必要なメールのような形式的な文章について、
どう書けばいいのか悩む人は多いです。
AIを使って文章を作り出すという発想にとどまらず、こうして作られた文章がどのような過程を経たのかをアーカイブしてこそ、文章の独自性を守ることができます。
考えのこもったメモがあったり、自分が得意な内容であったりすれば、文章を書くことがそれほど難しくなかった経験があるはずです。文章を書くのは一人でやるものではありません。自分の経験、自分が出会った人たち、空間とともに書くことのほうがむしろ多いのです。文章を書くうえで、たとえAIを通じてでも似たようなインスピレーションを得られるなら、それは意味のある文章作成の過程と見なせます。
したがって、AIが文章作成を助けるからといって、人々が考えなくなるという主張には同意しがたいですね。
むしろAIが作り出した文章の中からゴミのような文章をふるい落とすには、今よりも高いレベルの思考力と読解力が必要になると思います。
ただし懸念されるのは、文章作成の全過程をAIに丸ごと委ね、その文章をそのまま書き写すだけの現象です。これは人間がAIの宿主になったも同然なので、警戒すべきです。
同意します。AIをどのように活用するかによって、結果は大きく変わるように思います。
文章において引用文は、使い方を誤るとこの投稿が伝えようとしている意味や全体の文脈を損ねかねないと思います。
文章を書かなくても、人は考えることができます。つまり、あの引用文が適切に理解されるためには、「文章を書いた経験がなく、文章の書き方を学んでいない人は」のような前提、あるいはヒントが必要になるでしょう。
この投稿の要旨が「文章を書くこともまた学びの領域であり、将来はそれを選んだ人たちだけが文章を書けるようになる(+文章を書いたことのある人だけが、そうでない人よりも相対的に思考する力を得られるようになる)」だからです。
事実と意見を区別して読めるようになるべきですね。
=> 私が出した結論は、たくさん読んでたくさん書いてみましょう、です。(同意)
単にある概念を理解することと、その理解した内容を説明できることの違いに似ているように見えますね
ますます二極化が深刻化していく世界ですね
コメントを読んでいると、筆者が主張したい内容とは別の部分を指摘する意見が多く見られますね。
要点は、文章を書くことでもどんな行為でも、自分が考えたことや知っていることを表現する能力が重要だということのようです。
このコミュニティではずっと読むだけでしたが、初めてコメントします。
この文章に込められたさまざまな意見を見ているうちに(私が初めて文章を書くこと自体を見ても)、文章を書くという行為は、自分の考えについて深く考え、それを整理し、さらに伝える機能に適しているのだと改めて気づかされました。
ある時点から深く考えることができなくなってしまったような自分を見ていると、これからだんだん文章が書けなくなっていく気がするというポールの意見に深く共感します。
これから発展していく技術に適応していく人間の姿が、これなのかもしれないと思うと怖いです。
私の考えについて、どう思われますか?
ポール・グレアムの洞察に満ちた文章ですね。
文章を書く人とそうでない人
文脈によって「書くこと」の範囲がかなり揺れているように見えます。AIがほぼ解決したのは、狭い意味での「書くこと」、つまり一般に作文と呼ばれる文章の生成です。一方で、「書くことはすなわち思考である」と同一視している部分では、広い意味での「書くこと」を指しているように思えます。題材を考え、文章化をAIに任せるのは、筆者の基準では「書くこと」ではないのでしょうか?
一方で、筆者の文章には文脈を無視した引用と権威への訴えという誤りが含まれていると思います。「書かずに考えるなら、あなたは考えているつもりでいるだけだ」という引用は、書くことが認知負荷を下げ、他の知的活動の範囲と目的を明確にするための手段であることを示す文脈で出てきたものだと考えます。書く人と書かない人の二分法を表現する文にその引用を用いたこと、そして引用元の人物の業績を考えると、これは段落冒頭で述べた論理的誤謬の一例と判断できるでしょう。
https://youtu.be/6QsTfL-uXd8?t=195
現代人が深く考えなかったり、思考の道具を活用しなかったりする行動様式に対する問題意識には同意しますが、それについて論じる方法や、雑文ではない形式を備えた文章だけが思考の手段であるという主張には同意しがたいです
デジタル認知症と似たメカニズムなのでしょうか?
「書くことが思考のための唯一の方法」という点には同意しがたいですが、「書くことは深い思考をするためのかなり有用な道具だ」という考えは以前から持っていました。
もちろん、文章を書くこと以外にも、深い思考を助ける手段はたくさんあると思います。ただ、その中でも最も一般的で、取り組みやすく、比較的効率的だと言えるのではないでしょうか。
私の場合は、文章を書くことで思考の構成や流れを体系的に整理するほうです。書かずに頭の中だけで整理しようとすると、メモリが小さいせいか、うまくいかないんですよね。
「自分が理解していること」と「他人に理解させること」の違いではないでしょうか。他人に理解してもらう方法はいろいろあるでしょうが、その中でも文章を書くことは最も根源的でありながら難しい方法だと思います。学ぶ側にとっても、文章だけで何かを学ぶというのは決してとても簡単な方法ではない気がします。
文章によるコミュニケーションが唯一のコミュニケーション手段ではありませんが、時空間の制約を受けにくく、想像力の余白を許容するといった長所があるので、これからも着実に生き残っていくと思います。そして、文章を書く人が残っているということは、文章を読む人たちが残っているという意味でもあると思います。
GN+でも要約されていたので、意見だけ持ってきます。
Hacker Newsの意見
インターネット以前は対面や電話での会話が主なコミュニケーション手段だったが、現在はテキストメッセージやWhatsAppなど、テキストベースのコミュニケーションが主流になっている。オンラインデートも主に写真とテキストで成り立っており、文章力の重要性が強調される
文章をうまく書くには明晰な思考が必要だ、という前提は誤りである
書くことと思考の関係についての一般化は、現代技術の発展によってさまざまな分野に当てはめられる
書くことは、深く明晰に考えるための唯一の方法ではない
AIが生成する低品質コンテンツの帰結に対する懸念がある
書くことと思考の関係をめぐる議論では、非識字文化と識字文化の違いが指摘されている
書くことは、部分順序の線形拡張に似ていると考えている
技術についての予測は慎重であるべきだが、AIが人間を代替するという急進的な予測もある
ますます多くの人が、ツイート以上に複雑な文章を読めなくなっている状況への懸念がある
インターネット上に出回っているテキストを見ていると、元記事のように長く手間をかけて書かれた文章(実際には長さ自体は読むのにそれほど長いわけでもありませんが、場合によっては長文よりも長くない文章を書くほうが難しいものです)に対して、深く考えもせず、誰かの(最低限の検証すら経ていない)意見だけをぽんと残す、俗に言う「脳を委託した」ような反応がかなり多く見られます。体感ではだんだん増えている気がしますが、検証する方法はありません。最近Twitterでは、ヒンディー語話者がAIで文脈のない韓国語リプライを大量につける現象が急増していますが、本質的にはそうしたAIリプライと下のコメントに何の違いがあるのかと思います。
なので私は、原文の主張に強く同意する側です。おそらく人間と人間でないものを見分ける最後の手段は文章を書くことになるでしょうし、技術が発展しても人間が書いた文章はそうでない文章とは違うはずです。しかし、ほとんど大多数の人間はその境界を見分けられないか、あえてその必要性を感じないでしょう.
「『脳(思考)を委託した』という表現が刺さりますね。」
本当に理解しているなら、それを文章以外の方法でも説明できるはずだ。 - リチャード・ファインマン -
リチャード・ファインマンではなく、リチャード・パイマンという、パイばかり召し上がる方なんでしょうね。
リチャード・ファインマンはそのようなことを言ったことはないようです。少し調べてみましたが、形式は似ていても意味の異なる発言はしたようですね。
エリート主義的な視点が前提にあるように見えますね。^^
我思う、ゆえに我あり" - 人間は思考する限り、存在の価値と自己認識を成し遂げることができる。
悪いものと良いものがあるためには目標が必要ですが、その目標が、あたかも文章を書くことを思考の手段として使う人をたくさん生み出すことを前提にしているかのような印象を強く受けます。
そうでしょうか。絵では考えることができないのか、あるいは別のやり方で考える人がいてはいけないのか、あるいは深く考える人が多いことは無条件に善なのか。そんな疑問が浮かんできて、何だか腑に落ちない気持ちになります。