ブログを書くことは、当たり前のことを語る営みなのかもしれない
(blog.jim-nielsen.com)- ブログを書くことは、新しく深い洞察だけでなく、誰もが経験しながら見過ごしている明白な不便さを言葉にすることでもありうる
- John Gruberによるウェブサイトのポップアップ批判は、ウェブページやメールはまず本来の役割を果たすべきだという基本原則をあらためて浮かび上がらせる
- Jim Nielsenは、自分の文章が新しくも重要でもないと感じることがあるが、いら立たしい事例が積み重なると、結局は文章にして証拠を添えることになる
- こうした文章は「自分だけがこう見えているのか?」という感覚から始まり、ときには当たり前の指摘こそが最高のブログ記事になる
- 誰も語らないことを自分で書いたり、すでに同じことを言っている文章にリンクして強く同意したりするのも、ブログを書く自然なあり方である
当たり前のことを文章にする理由
- John Gruberがウェブサイトの煩わしいポップアップを批判した記事は、ウェブで一般化したユーザー敵対的なパターンを扱っている
- ユーザーがウェブサイトを訪れたら、まずそのサイトとコンテンツを見られるべきである
- 「ニュースレター購読」や「Cookieの受け入れ」のポップアップを先に表示するのは、ウェブページはまずウェブページを見せるべきだという基本原則に反する
- メールニュースレターがウェブページへのリンクだけを含んでいるのも、同じ文脈の問題である
- ブログを書くことはしばしば、裸の王様の物語の子どものように、自分には明白に見えることを口にする行為のように感じられる
誰も言わないときのブログ
- Jim Nielsenは、自分の文章が新しくも重要でも深くもないと感じ、「これを言う価値はあるのか?」と思うことが多い
- しかし、現実の不快な事例が積み重なっているのに誰も言わなければ、結局は文章を書いて、事例を添えて語ることになる
- 例として、メニュー内のアイコンに関する記事とMacアプリのフリーマーケットに関する記事が挙げられている
- 良いブログ記事は、ときに誰も言わない当たり前のことを語るところから生まれる
- すでに誰かが同じことを言っているなら、その文章にリンクして「Yes!!! This!!!」と同意するのも、ブログを書く一つの方法である
1件のコメント
Hacker Newsでの意見
人は人生の段階ごとに異なることを学び、学んだことを嬉々として共有するようになる。ウェブサイトがあるなら、そこに書くだけのこと
すでに誰かが書いた内容でも構わない。まだ知らない人はとても多いし、自分が書き直せばまた別の人たちが新しく知ることになる
すでに知っている人には退屈かもしれないが、そもそもその人たちのために書いているとは限らない。しかも同じテーマでも新しい視点や切り口があり得るのだから、そういうものを見るつもりで読めばいい
みんなが知っていると思われていることにも、毎日初めて学ぶ人が1万人いる
「自分にとっては当たり前だが誰も言わないこと」を語ろうとする意志こそ、ブログの核心なのかもしれない。すでに誰かが言っているなら、リンクを貼って「そう!!! これだ!!!」と言ってもいい
若いころ数学が好きだった時期には、整数論や幾何学の基本定理を証明して発表することに尽きない情熱があった
だが博士号を持つ数学者になったあと別分野へ移った今、新しい数学記事を書こうとすると、「すでに誰かがもっと上手くやっているのではないか?」「独力での再発明で読者の時間を無駄にしているのではないか?」「個人的利益のためにシグナルを埋もれさせるノイズになっているのではないか?」という見えない視線に阻まれる
統計的に見れば、誰も完全に独創的な考えを持たないと言っても無理はなく、既存のアイデアを最もうまく説明できる人ほど、かえって最も動機づけられにくいのかもしれない
世の中のすべてのブログ、コラム、SNS投稿から情報の重複を取り除いたら、圧縮率はどれほどになるのだろうと思う。こうした文章では、同じ主張や観察がトーンだけ変えて繰り返されているように見える
とりわけ、あなたがあるテーマを選んで強調したという事実そのものによって、読者は注目する。あなたが本質的に優れているからではなく、読者があなたに注意を向けることを選んだからなのかもしれない
今Hacker Newsを見ていたら、この記事がトップにあり、このコメントが最初のコメントだった。だから私は元記事とこのコメントの読者になった。この記事やコメントがなければ、別のことをして別のことを考えていただろう
それが良いか悪いかは分からないが、少なくとも違う。新しいかどうか、最高品質かどうかとは無関係に、身近にある情報源に心を開く人間の傾向は、適応的な特性なのかもしれない
読んでくれた少数の人たちは概ね気に入ってくれ、多くは前向きな反応を示し、何か学びがあったと言う人もいた
いつも思い出す別バージョンがある
「以前は、仕事で『創造的』または『独創的』でなければならないというプレッシャーに苦しんでいた。ある時、大きな転換があったのだが、どれほど基本的でありふれたアイデアでも、自分がそれを繰り返す瞬間にそこへ自分の世界観が入り込むのだと気づいた
どの基本的なアイデアを増幅するかを選ぶだけでも、成果物には毎回少しずつ自分の一部が入る。だから特定のツイートが『独創的ではない』というのは文字通り不可能だ。もちろん、本当に完全に独創的であることも不可能だ。常に他人の考えをリミックスしているのだから
この見方は、自分の世界観を育て発展させることを重要にする。個々の『基本的な』考えの下で煮えたぎっている独創性は、そこから生まれるからだ。良い文章は書き直しであり、他人の言葉も含まれる。そしてそのレンズは、あなたの心全体なのだ」
出典: https://x.com/eshear/status/1539393474612498434
難解なテーマの複雑なブログ記事も必要だが、「常識」についての文章はそれ以上に重要なことが多い。どこかの15歳がC++のさまざまなスマートポインタの使い方や、鋳鉄製フライパンの手入れ方法を知る必要があるかもしれない
エンジニアの友人が業界で10年働き、管理職にまで上がったあと、トップ10級の経営大学院でMBAを取ることにした。工学と比べれば簡単だと言っていたが、教えていることがどれも明白な常識だからだという
最初は、それなら学位に価値がないという意味かと思ったが、友人はまったく逆だと言った。すべてが明白な常識であっても、誰かがそれをひとまとめに整理してくれて、事業を管理する際にそうした当たり前のことを考え続けるよう思い出させてくれるのは大いに役立つという
自分にとって当たり前のことが他の人にとっては当たり前ではないこともあるし、ありふれた見解に対する自分の解釈が既存の記事よりも誰かにうまく合うこともある。
しかも意外と多くのテーマで、当たり前の内容がきちんと文書化されていなかったり、特定の質問への答えを見つけるのがほとんど不可能な場合がある。
そんなとき、答えがDiscordやGoogle Docsの中にしかないのではなく、公開Webに載っているだけでも大きな助けになる
今週、HNで少しだけ人気を集めた記事を投稿したのだが、何人かが内容は「新しくない」と言っていた。
自分が書く内容をすでに知っている人は対象読者ではない、ということは暗黙に伝わるべきだと思っていたが、その人たちがコメントしていた。
それと同時に、その記事はかなり多くの推薦を受け、コメントには興味深い反応や補足も多かった。つまり「古い話」でも多くの人にとっては新しい話だったわけだ。
ときには会話を引き起こす必要がある。新規性ではなく影響に焦点を当てるべきだと思う。見つけたことを共有する人たちをしっかり擁護してくれる文章だ
当たり前のことを出版するのは、歴史家にとって大きな価値がある。物事が実際にどう行われていたのかを把握できるようにしてくれるからだ。
あまりに「平凡」で、わざわざ説明する必要がなさそうに見える内容を書こうとしている。あとから振り返ると面白い洞察にもなりうる。
自分が書く情報源をもっとよく保存する方法も掘り下げてみたい。他の資料にリンクするときは、少なくともそこで何を見つけたのかを説明するか、あるいは出典をミラーリングすることが重要だと思う。
リンク切れで画像が消えたフォーラム投稿を十分すぎるほど見てきたので、いくつかのリンクや画像、参考資料が消えた瞬間に、有用なコメントがパズルになってしまうことを知っている。
今では、Webが長期的にどれほどうまく保存されるのか気になっている。新しい知識は過去の知識の上に積み重なるが、肝心の過去そのものは残していない、ずっと滑り続ける窓のように見える
「幸いにも、すべての本が読む価値のあるものではない」という格言はブログにもかなり当てはまるだろうが、「役に立たない」ように見えるブログであっても、ブロガーにはある程度の敬意を感じる。
「役に立たない」ものを世に出すことも、ときには勇気のある行為になりうる。ジョージ・オーウェル風に言えば、「普遍的な欺瞞の時代に真実を語ることは革命的行為である」というような感覚だ。
あとで自分を悩ませるかもしれないアイデアを公開するかどうか考えるとき、萎縮効果をあまりにも頻繁に感じてきた。論争的だとは思わないことですらそうだった。
奇妙なことに、無作為なHNのコメントスレッドでは心理的に同じ水準のリスクを感じない、その皮肉もよく分かっている
初心者向けの関数型プログラミングのチュートリアルをよく読むのだが、よくある失敗がある。最初は「この新しい記法をどう理解するか、
Int -> Int -> Booleanが何を意味するのか」を2文くらいで説明する。ところが退屈してしまい、突然難解な記号や用語を大量に並べて、チュートリアルモードだったことを忘れてしまう。または、前で説明した文法とまったく同じに見える例を出しておいて、「あ、この文脈では
:は別の意味だったのか」となり、また混乱させる。REPLプロンプトを見せながら、
#がプロンプトなのかコマンドの一部なのかを説明しないこともある。こういう例は挙げ出せばきりがない。数十年前には、Cプログラマが基本的な命令型構文を説明するつもりで、再帰呼び出しや三項演算子、ビットシフト入りの「素数計算」例を書いていたようなものだった。
だから次のブログ記事は「基礎的な文章作成における七つの大罪」になるかもしれないが、罪状は一つしかないだろう。自分が担っているたった一つの役割を忘れてしまうことだ
そこで「不完全でも大丈夫! とりあえず公開して、あとで各セクションを補強しながら整えよう」と考える。そうして公開したあと、二度と見返さない。
結局こういうジャンルの記事全体がもう役に立たなくなるので、大きな害はないとも言える
ブログには社会的な側面もある。何かを投稿すると、あなたがどんな人なのかが分かる。私があなたと結ぶ、おそらく準社会的関係を形作る助けになる。
そしてあなたが投稿した文章なら、他の人が同じテーマで書いたときには関心がなくても、読みたくなるかもしれない。私があなたに関心を持っていて、あなたが何を言うのか知りたいからだ。
人間のコミュニケーションは、情報やアイデアの伝達と同じくらい、あるいはそれ以上に、関係形成に関するものだと思う